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Project "I.F.O." ④まだ回顧録

(つづきネタです。カテゴリProjectから以前の記事をご参照ください。)

16歳の夏休みにイギリスはリバプールへ飛んだ。
目的は、Liverpool Institutes for Performing Artsという芸術大学のサマーコースを受けるため。
受講した二週間のコースの内容は、ただバンド組んで曲を練習して、レコーディングしてCD作って、合間にソングライティングやリズム、各種楽器(私はボーカルを選択)ワークショップとかもあって、最後はライブで盛り上がりましょ~というもの。
(この大学のサマーコースは、翌年にも参加することになった。)

日々新しいことの連続で、とても疲れる毎日だったが、とてもとても楽しかった。

もちろん、不安になる日もあったし、リヴァプールという街はお世辞にも治安が良いとは言えず、少々怖い思いもした。
でも、自分で作った曲を初めて人前で、「こんな曲なんだけどさぁ」とおずおずと頼りない英語で披露して、バンドで合わせて、イギリス人やドイツ人のメンバーが自分の曲で「ノッて」演奏してくれることに感激した。
そしてそれ以上に、自分の力不足を痛感、、自分と同じティーンエイジャーのクラスメイト(バンドメンバーというべきか)の楽器演奏力に驚き(17歳でバー等でプロとして演奏してる子もいた)、この時の日記には「うおー、ギター練習せなー、私のキーボードしょぼすぎー情けないー」とか毎日書いていた。

自分の曲が、バンドアンサンブルでCDになったことも嬉しかったが、なんといっても一番の収穫は仲間ができたこと。情報交換ができたこと。
今まで聴いてきたジャンル・時代の音楽以外のアーティストも聴いてみようという気になったこと。
とはいえ、この頃はまだまだ語学力が頼りなくて、かなりゆっくり話してもらわないと相手が何と言ってるかわからないから、みんながぺちゃぺちゃ喋っている話題に入って私も面白いことを言う、なんてことはできなかった。

日本人の参加者も、同じコースをとっていた年上のお兄さんが二名、あとシアタープロダクション(ミュージカル)のコースをとってた女の子もいたから、その中でも色んな話ができた。
お兄さん達には、音楽理論を勉強しろ、ギターうまくなりたかったらちゃんとスケール練習をやれ、それから、ちゃんと大学には行っとけ、、、それからでもやりたいことはできるだろう?と、とうとうと諭された。
10歳年上のお兄さん(滋賀県出身のべーシスト、簡潔に例えると、ウルフルズに居そうな人)は自分と同じ関西人で、話が噛みあうということもあり、精神的には本当にこの時、助けてもらった。
酒場で(もちろん私は呑みませんよ)オッサンに絡まれて怖くて恥ずかしい思いをして、滞在先の寮に帰ってから、この留学中で初めて泣きながら怒りを撒き散らしたんだけど、その時も「こんなことで泣いててどうすんねん、おもろいやんけ」と言ってくれて、「それもそうだな」と思ったことが印象的だった。

その一方、もう一人のお兄さんは(キーボーディスト)、ホントかどうかは知らないが、「若いころはクスリはなんでもやった、まああれは止めといたほうがいいよ」「俺、ゴーストライターなんだよね」などと言ってて、「音楽業界とはそんな退廃的な無秩序な恐ろしい世界なのか?」とも考えてしまったり。
ともあれ、その時の自分にとって受け入れがたいことも、有り難い忠告も含めて、和歌山の高校を離れてここまで来てみないと見えなかったことばかりだった。

もちろん、せっかくリヴァプールに来たのだから、ビートルズゆかりの地は全て巡った。
ご丁寧に、海外から受講者が集まるサマーコースなので「マジカルミステリーツアー」(笑)と題したバスツアーがあって、あの(酷評された)映画に出てきたのと同じサイケなバスにのって、ペニーレインを、ストロベリーフィールズを、ジョンの生家を周り、夜には自分たちでキャバンクラブにも言った。テディボーイ気取りのジョンの銅像の前で写真を撮ったり。
(…この辺の話はビートルズファンにしか通じないかな、、あしからず。)

で、あっという間に帰国の日が訪れた。
皆それぞれの国へ帰っていく。憧れのカッコいいあの子も帰っていく。(あの子、最後にハグしたときチョーいい匂いがして、、、それと同じ香水を捜したけれど見つからなかった、、蛇足。)
寂しいけれど、帰りの飛行機で先述の関西人のお兄さんと一緒に馬鹿話をしながら、「高校にはちゃんと行って、大学には入れよ」という忠告を胸に、成田空港に降り立った。

空港から独りで新宿まで移動して、そこで大学生である姉と会うことになっていた。

単純な私は、早速新宿のデカい本屋(名前忘れた)に寄って、音楽理論の本等を調達し、大学入学=勉学へのモチベーションを上げようと、ちゃんと志望校に入った姉に大学生活の話を訊くつもりだった。

、、、が、たまたまその日の姉の機嫌が悪かっただけだと今では思うんだけど、何を訊いても「別に、おもんないよ」(別に、別に、って沢尻エリカか、というくらい)とダルそう…。
しかも、新宿南口で待ち合わせして、甲州街道を横切ってきた姉の姿は高校時代のファッションとはかけ離れていて、足首ぐきっといわしそうな(その時きっと流行ってたんだろうね)厚底のサンダルに、全然似合ってると思えないミニスカート。
あなた、何を血迷っているの?私の知ってるお姉ちゃんじゃないんだけど、、、と、早くも「やっぱ大学もつまんないんだな」「東京という大都会が私のお姉ちゃんをこんな安っぽいビッチ(というのは言い過ぎ)に変えてしまったのか?」と意気消沈したのを憶えている。

勉学への情熱再燃、の可能性は早々に消えてしまったが、音楽に対する意欲は増す一方だった。
まず、4トラックのMTR(マルチトラックレコーダー)を購入し、多重録音で楽曲を作るようになった。
このMTRは今でもちゃんと動いて、使っている。レコーダー部分はデジタルで、専用のMDに録音し、ミキサー部分はアナログで結構面倒くさくて、ミックスダウンはCD-Rレコーダーやカセットデッキで行うもの。
その二年後には8トラックのMTRにバージョンアップさせたのだが、こちらは何年も前に壊れてしまい、今は地元の爺さんの家に眠っている。

私の音楽世界は広がった。
その過程は楽しかった。
反比例して、学校生活はさらに苦痛になった。

夏休みの後には毎年、「文化祭」という行事がある。
中学一年の時から、この行事で私のクラスでは演劇をやっていた。
やっていた、というか、私がやりたいことを提案して、仕切って、やりたい放題(ほんとうはそう易々とやりたい放題させてはくれなかったんだけど)やっていた。
学校生活が嫌になりはじめた中学三年からは、もうこの文化祭での演劇だけが「私の本領発揮」とばかりにハッスルしていた。
リヴァプールから帰った後の文化祭でも、もうシナリオは書いてあるし、色々なストレスを抱えながら「これが最後」と思ってやりきった。
そして、文化祭の翌日に催される「体育祭」の日から、登校するのを辞めた。

このように書くと、私は「やりたいことがハッキリと解っていて、自分で自分の道を決める強い子」のように映るかもしれないけど、本当はそんなことはなかった。

これではいけないという葛藤、あの楽しかったリヴァプールでの日々を思えばここは灰色の世界だという自分でもどうしようもない無気力、無感動。
学校で受ける人間関係のくだらないストレス、そして思春期ならではの自意識過剰からくる、「私は醜い、醜いから誰にも会いたくない」という強迫観念。
他のクラスメイトが当たり前のようにできていること(登校、社会生活、そこそこに勉強も)が自分にはもう出来ない、という情けなさ。孤独。
そのように苦しむ私をみて、母親は「(リヴァプールに)行かせるべきではなかった」と泣く。

(これ以上、本当のことを書くべきか、もうずっと昔のこととはいえ、今も迷っている。
でも、これらの思い出は折につけ、眠れない夜に私が頭の中で再生してきた黒い記憶だ。
Let goさせてあげたい。だから、書く。)

登校拒否を続けてどうするのか。
ぼんやりと、やりたいことは解っている。それは、プロのシンガーソングライターになりたいという夢だ。
でも、どうやったらなれるのかなんて、解らない。
ソングライティングの力は、自分の中で(浅はかにも程があるが、、、)信じられるものがあった。
でも歌も、楽器も、色んな楽器を使うわりにはどれも下手だった。
日本の音楽専門学校(クラシックの音大は無理なので)にでも入るか?
なんか違う気がした。
先が見えない。孤独。誰にも会えない。
「私はビートルズみたいな、ジョンレノンみたいな偉大なアーティストになるのだ」という宣言、それにしがみつくしかないから心の中で声高に唱え続ける、そんないびつなプライドと、
私の頭はおかしい、私は醜い、ダメな人間だ、クラスメイトに唾を吐きかけられても、「あいつは落ちた」といわれてもしょうがない等と考えている低すぎる自尊心、(もちろんそんな酷いことをするクラスメイトは居ません)
それらを抱えたアンビバレントな自分が居た。
本当に誰にも会いたくなかった。
一番仲の良かった友達や、担任の教師が自宅を訪ねてきてくれて、「部活だけでも出れば」と言ってくれたらしいけど、私は顔も出さなかった。
本当に、この友達には悪いことをしたと今でも思っている。優しさを踏みにじっていた。
気晴らし食いをするようになり、何キロか太った。
ますます自分が嫌になった。
もともと寝つきの悪い子供だったが、いよいよ不眠症になった。
悪夢から覚めてもまだ悪夢、という夢をよく見るようになった。
眠ることさえ怖かった。

それでも、「今日からやりなおそう、学校行こう」と決意して、朝、制服に着替えて、母に髪をポニーテールに結いあげてもらい、玄関まで行くのだが、玄関に置いてある姿見をみて、自分が嫌になる。
ポニーテールから一本でもおくれ毛が出ていると、キタナイ、と感じる。
自分の頭がおかしくなっていると実感していた。
それでも、自分のやりたいことを(歌つくって宅録)地道にやっている間だけは、自分の世界がここにある、と感じられる間だけは、気持ちが落ち着いていた。

頭がおかしくなっていると実感したので、それをどうにかするために様々な書籍を読んだ。
専門的な精神医学の本から、経験者の自伝のようなものからさまざまに。
病院に連れて行ってほしいと思っていた。
カウンセリングを受けるなりしたいと思っていた。
…今、大人の私がこのころの自分にアドバイスできるのなら、心を整えるためには、食生活、睡眠のリズムなどが非常に大切で、食事を変えるだけである種の精神病さえ治ることがある、と言ってあげられるだろうと思うのだが…
でも、まあ、振り返ってみれば、ここは通らねばならぬ道だったのだな、とも思う。

「病院に連れて行ってほしい」と、意を決して母に伝えた。
そんなこと、言いたくはなかった。母にとってもショックだろうということは子供心に少しは解っていたから。
でも、それは叶わなかった。
ただ、カウンセリングなりを受けて、自分の思いを吐露したかっただけなんだけど。
誰かに相談したかっただけなんだけど。

…最終的には、「これからどうするか」という道を決めることで、この最悪な状態からは脱することとなった。

もう「こんなに苦しいなら死んでしまいたい、でも死んだら賽ノ河原に行くというのは本当だろうか?それも嫌だ」そんなことまで考えて、「でも死ぬ気になれば、どんな大それたことだってできるじゃないか?」とも思うようになった。

私は三人兄弟の末っ子なのだが、兄と姉が高校卒業して出て行って、父・母と三人だけになった自宅で、ある晩三人で話し合った。
父の提案は、「今の学校がいやなら、大学生の姉と一緒に住んで、東京の高校にでも転入すればいい」ということだったが、それは私にとって何の解決にもならない提案だった。もう、私は「わがまま」な人間になりきってしまっていた。やりたいことしかやりたくない。
「留学したい、英語が使えるようになりたい、私が聴いて憧れてきた歌は殆ど英語だから、英語が使えないと私の夢は実現しない、それにここから遠く離れた場所へ、誰も知らないところに行きたい。」
それが私の、思い切って口にだした希望だった。
リビングの床に水たまりができるほど、泣いた。

結果的には、「自分で(留学先など)すべて準備できるのなら、行けばいい」というゴーサインをもらえた。
やっと未来が見えて、ふさぎっぱなしだった私も明るくなってきた。
当時はインターネットも普及していなかったので、大阪の領事館まで言って留学先を調べたり、短い期間だったけど英会話教室に通ったりした。活動的になったら、増えてしまった体重も元にもどった。

…たった16歳で、高校を辞めて、自分で決めた学校に留学させてくれた、、ということに対しては、親に感謝してもしきれないし、(この頃はまだ、家にお金があったのですね、、、)大人になってから母とその頃の話をよくしたが、母も「ほんと、私もよくいかせたもんやわ、周りの人にも、そんな子供に独りで海外に行かせるなんてとんでもない、と口ぐちに言われたし」と言う。

本格的なイギリス留学が、現実的になってきた。
もう、私は「イギリス人になる」つもりでいた。(アホ)
そのくらいの勢いがないと、できない決断だった。
勢いがあったから、不安はなかった。
音楽があったとはいえ、あんなに辛い思いをして、親も泣かせて、やっと見つけた希望だ。

高校一年の年度末に正式に高校は退学し、(教科書は全てびりびりに破いて処分)
その年の5月、17歳になる直前に、とりあえずは三カ月、ということで二度目の渡英。
もう不安はなかった。
場所には幾つか選択肢があったが、今回は、オックスフォードへ。
ビートルズが60’sの、私にとってのBest Bandであるなら、90'sのBest Bandであるレディオヘッドの出身地ということがオックスフォードに決めた理由の一つだった。

ここから一年二カ月の、海外生活・独り暮らしが始まった。
楽しいこともあれば、悲しいことも、憂鬱な日もあった。

…とてもダークな内容まで書いてしまったけれど、今日はここまで。
もう読みたくないよ、と思うだろうか。
なんでそんなことまで書くの?と思う人もいるだろうか。

でも、エグい青春(笑)があるからこそ、私は色んなことを学んでこれたと今は思っている。
これでもかなりはしょって書いたのだけど、私の若い頃のように苦しんでいる若い子がいるなら、
なにか役にたてるような話がしたい、とは前々から思っていた。
そんなに多くの人の目に触れるようなブログではないことはわかっているけれど。

さあ、どこまで続くんだろう、この回顧録シリーズは、、、
まだ17歳になる直前、、、31.5歳まで全部書くつもりか?
まだ解らないけど、またね。
またよろしくね。
by agatha2222 | 2013-02-10 05:09 | Project Beatlish | Trackback | Comments(0)


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