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「光」であれば、軽いのだ①

期が熟して、やっと、「門」の前まで来たような、感じがしています。
自分の、人生の「門」。
感覚的な話です。

「どうして生きているのだろう」「何のために生きているのだろう」「何故うまれてきたのだろう」
そんなことは、誰でも考えたことがあると思います。

その昔、中学生だった一時期、きっと退屈だったのだろうけど、そんなことを真剣に考えていました。
ワタシという存在は、何なのだろう。
この意識と、思考のことなのか。
その意識と思考に閉じ込められて、一人ぼっちで、これからもずっと生きていくのだろうか。
この中は曇っていて、暗くて、恐ろしい。
外に出てクラスメイトとワイワイやったところで、結局ひとりぼっちじゃないか、と。
はっきりと線引きされたワタシという存在(意識・思考・精神)と、他の存在を繋ぐ橋になればと、言葉を駆使しようとしても、たいていはウザがられるだけ。
同じニオイのする存在とは、話して話して話しつくしても、互いの哀しみや閉そく感を確認しあうだけ、救い合えないね、と確認しあうだけ。
ワタシという存在がパンパンに膨れ上がって苦しくなり、身体とも仲が悪くなり、
そんな「永遠の問い」のように思える寂しい考えから逃れるために、何か夢中になれることを求めていました。
求めなくても、やりたいことは、あったのだけど。(音楽など)
あったのだけど、24時間ずーっとそれに従事していられる集中力はないから、
寂しさはついてまわった。
「寂しいことがあたりまえなのだ」と受け入れるべきか、
「寂しくない生き方があるはずだ」と探すべきか、
考えていた。それは、10代までの話。
西洋・東洋の哲学書なども読んでみたけれど、
字は読めても理解はできなかった。
精神医学についても読んでみたが、
これは理解できた(と思う)けど、
今から思えば、本当の解決(寂しくない状態)には結びつかない、
ただの「慰め」のようなものだったと思う。

それから時は流れて20代後半、
「腑に落ちる」実感を伴って解ったことは、
ワタシだと思っていた「意識・思考・精神」は、本当のワタシ、ではないということ。
それらを本当のワタシ、だと思いこんでいるから、
さまざまな苦しみや寂しさが生まれるのだということ。
解ったところで、すべての煩わしいことが解決する、というわけではないけれど、
その気づきは、自分にとってとても大きかった。

では本当のワタシ、とは何なのか。
言葉にすると、色んな言葉で表せるのだろうけど、
活字にすると何ともアヤシイので少し躊躇われる。
「意識・思考・精神」がココロであるなら、本当のワタシは、タマシイ。
もしくは、愛、光、神、真我、この世の唯一なる存在。
(ああ、アヤシイ。)

アナタもワタシも、出所はひとつ、同じ海(タマシイ)の一滴、だと思えば、
人を上だ下だ、右だ左だ、正だ邪だ、と分け隔てて争ったりすることは無意味だと解る。
元々は皆ひとつなのだから、寂しいわけがないと解る。
その実感を得るには、ココロを少し脇に置いてみる、
自分のココロ(の輪郭)を認識して、静かにさせてみる。
瞑想とか、座禅とか、そういうことかと。
by agatha2222 | 2013-04-29 10:16 | Other | Trackback | Comments(0)
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