期が熟して、やっと、「門」の前まで来たような、感じがしています。
自分の、人生の「門」。 感覚的な話です。 「どうして生きているのだろう」「何のために生きているのだろう」「何故うまれてきたのだろう」 そんなことは、誰でも考えたことがあると思います。 その昔、中学生だった一時期、きっと退屈だったのだろうけど、そんなことを真剣に考えていました。 ワタシという存在は、何なのだろう。 この意識と、思考のことなのか。 その意識と思考に閉じ込められて、一人ぼっちで、これからもずっと生きていくのだろうか。 この中は曇っていて、暗くて、恐ろしい。 外に出てクラスメイトとワイワイやったところで、結局ひとりぼっちじゃないか、と。 はっきりと線引きされたワタシという存在(意識・思考・精神)と、他の存在を繋ぐ橋になればと、言葉を駆使しようとしても、たいていはウザがられるだけ。 同じニオイのする存在とは、話して話して話しつくしても、互いの哀しみや閉そく感を確認しあうだけ、救い合えないね、と確認しあうだけ。 ワタシという存在がパンパンに膨れ上がって苦しくなり、身体とも仲が悪くなり、 そんな「永遠の問い」のように思える寂しい考えから逃れるために、何か夢中になれることを求めていました。 求めなくても、やりたいことは、あったのだけど。(音楽など) あったのだけど、24時間ずーっとそれに従事していられる集中力はないから、 寂しさはついてまわった。 「寂しいことがあたりまえなのだ」と受け入れるべきか、 「寂しくない生き方があるはずだ」と探すべきか、 考えていた。それは、10代までの話。 西洋・東洋の哲学書なども読んでみたけれど、 字は読めても理解はできなかった。 精神医学についても読んでみたが、 これは理解できた(と思う)けど、 今から思えば、本当の解決(寂しくない状態)には結びつかない、 ただの「慰め」のようなものだったと思う。 それから時は流れて20代後半、 「腑に落ちる」実感を伴って解ったことは、 ワタシだと思っていた「意識・思考・精神」は、本当のワタシ、ではないということ。 それらを本当のワタシ、だと思いこんでいるから、 さまざまな苦しみや寂しさが生まれるのだということ。 解ったところで、すべての煩わしいことが解決する、というわけではないけれど、 その気づきは、自分にとってとても大きかった。 では本当のワタシ、とは何なのか。 言葉にすると、色んな言葉で表せるのだろうけど、 活字にすると何ともアヤシイので少し躊躇われる。 「意識・思考・精神」がココロであるなら、本当のワタシは、タマシイ。 もしくは、愛、光、神、真我、この世の唯一なる存在。 (ああ、アヤシイ。) アナタもワタシも、出所はひとつ、同じ海(タマシイ)の一滴、だと思えば、 人を上だ下だ、右だ左だ、正だ邪だ、と分け隔てて争ったりすることは無意味だと解る。 元々は皆ひとつなのだから、寂しいわけがないと解る。 その実感を得るには、ココロを少し脇に置いてみる、 自分のココロ(の輪郭)を認識して、静かにさせてみる。 瞑想とか、座禅とか、そういうことかと。
by agatha2222
| 2013-04-29 10:16
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by あがさ カテゴリ
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