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どうくつのはなし「寂しさの根源」

「現代人が寂しいのは自然と切り離されているからだ」
と誰か偉い人が書いているのを読んだことがあるのですが(誰かが誰かは忘れた)、
ずっと印象に残っています。
本当に現代人が「自然と切り離されている」かどうかはまず置いといて、
この「理由のない寂しさ」について、折にふれ考えてきたことを、
ダラダラ書いてみたいと思う…。
(ダラダラ脱線しながら何処へ行くかわからないということで洞窟の話。)

その「寂しさ」はまるで、
寂しいのが当たり前(デフォルト)で、
何かに従事・集中しているときは寂しくないけれど、
(つまり気を散らしているような状態)
何もなくなったら寂しい、退屈だともいえる。
退屈/寂しさを避けたいという動機が何かを成し遂げるための助けになるならそれはそれでいいかもしれないが、
まあ、誰でも疲れはするし、何かに集中し続けるなんて、ふつうは無理。
もしくはその感覚を麻痺させるという回避策もある。

「理由のない寂しさ」が誰にでもあるという前提で書いてますが、
その感覚がない、という人もいるでしょうね。

ワタシにとって目から鱗だったのは、
「人間のすべての苦しみは、自分の思考や感情が自分自身だと勘違いしていることにある」
というインドの教え。
では自分自身とは何かというと、大きな命、すべての根源、魂、光源、愛…
エトセトラ。

こういう話、なんとなくでも実感が伴わないと全くナンセンスに聞こえてしまうので、
説明するのはとても難しい。
さらに、愛だの神だの言いだすととたんにアヤシくなる、(聴きたくないという人が増える)
ので敢えてそういう言葉を使わないでおいた方がいいのかもしれない。
(でも、そんなことは気にしない。!)

じゃあどうやって「本当の自分自身」を実感すればいいのか、どうすれば出会えるのかというと、
思考を鎮めること。つまり瞑想。
もしくは、一度その事実に実感をもって気づいたら、
いつでも出会えるのかもしれない。

瞑想法にもさまざまなものがあるらしく、
その目的も、説かれ方はさまざま。
要は自分が生きやすくなれば何でも良いかと。

ワタシがこういうことを集中して考えていたときに出会ったのが、
ジルボルト・テイラーの「奇跡の脳」という著書。
(以前ブログでもちょっと書きました)
これは、脳科学者である著者本人が脳卒中を体験し、言語能力を司る左脳の大部分にダメージを受けながらも壮絶なリハビリで回復し、大学教授として復帰、
「その時」脳内で何が起きていたかを綴ったものです。
もの凄く興味深い内容です。

左脳の一部が破壊されてゆく過程で、論理的思考はどんどん纏まらなくなり、言葉は思い出せなくなり、、(そして脳科学者ゆえ、その状態から具体的に脳のどこの分野で出血が起きたかを同時に考えている)それでもなんとか助けを呼ばんと踏んりつつ、
一方で味わったことのないような多幸感が湧いてきた、という。
左脳と(多幸感・一体感・今ココ?感の源泉である)右脳が対立して、右脳は「もう左脳が回復しませんように」とあたかも訴えていた、とか。
この話から思い起こすのが臨死体験話で良く出てくる、お花畑のイメージ、、

「太古の人間は脳を筋肉のように使うことができた=使いたい時だけ使うことができた」
という話を最近何度か耳にすることがあったのだけど、
こういうことなのかな。
「幸せスイッチ」もしくは「愛の部屋」は脳の中にあって、
好きな時にそこにアクセスができて、かつ論理的思考に集中することもできる、
そういう自由自在さ。
もしかしたら、テレパシーも飛ばせた?

ところで、思考を鎮めることは、思考(や感情)を否定したり無視することとは全く違う。
あっていい、と認めることが非常に大事かと。
それらを無視してたんたんと生きて、いると、
いわゆる離人感のようなものに囚われるハメになる。
(自分が自分じゃないような感覚、すべてが他人事のように思える感覚)

話は少し反れるけれど、ワタシが日常的に持っているのが、
思考や感情が「小さい=子供の自己」だとして、
「大きい=親の自己」がもう一人存在していて、
色んなことを考えてジタバタしている「小さい自己」を「大きな自己」として見守ってあげている、というスタンス、
そういう層構造を自分のマインドに持っていると、良いと思う。
良い、というかワタシの場合はそれで楽になったこともある、という話。

"...we spend so little time teaching how our mind function"
(心の機能については殆ど教育を受ける機会がない)
とは、先月の「追いかけて欧州の旅」で観たシェルカウイとシャンタラによる舞台"Play"の後半でなされるスピーチの一節。
余談だけど、シェルカウイによるごく初期の振付作品"Rien de Rien"で、先の「奇跡の脳」から抜粋が使われていたらしい。
(ごく初期の作品につき、映像等の資料がまったく見つからない…泣)
個人的にウワーイと思っただけのことヨ。

で、話は冒頭に戻って「自然と切り離されているから」寂しい、ということですが、
ここで言う自然、とは「大きな一つの命」と解釈していいのかな、と思った。
だとしたら、「切り離されている」のではなく「切り離されている」と思い込んでいる、
もしくは自ら「切り離している」から寂しい、と。
そうやって切り離していると、傍に誰が居ようと寂しい、と。
一方で草木花、山海川、などの「自然」が我々を(ある程度)寂しく「なく」してくれる、という感覚もわかる。
なんでか。

、、、、プスーッ、雑なりに書き終えたことで、もう考える必要がなくなった。
こういう排出作業は大事です。
纏まってないことは解ってます、別にいいんです。
「どうくつのはなし」シリーズはこの後も続きます。
by agatha2222 | 2013-07-05 00:57 | Other | Trackback | Comments(0)


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