先日から何気なく録画しておいたテレビ番組等を観ていると、
在る禅僧が、 藤子・F・不二雄先生が、 是枝裕和監督と姜尚中が、 アルピニスト野口健と小説家・平野啓一郎が、 詩人の加島祥造と姜尚中(再び)が、 話していた。 最近いくぶん細く弱々しくなった論理的思考(ワタシの)を貫いているテーマについて、 もしくはそれに関連づけられることについて話していた。 ぽっかり空いた穴の中にそれらの言葉は吸い込まれていって、 自力で捏ねられる(?)パン生地のように纏まって、 もしくは粘菌のように変化しながら形作られていく。 変化していくワタシ個人の死生観が語りはじめる。 その後さらに、 姜尚中の小説「心」と 水木しげる「猫楠」-南方熊楠の生涯ー(マンガ) を読んだ。 「心」は、息子を亡くした(自殺)ばかりの姜尚中自身が、 ココロの整理をつけていく過程、のような作品だ。 同じテーマとは、 生と死と、家族、 綿々と受け継がれる命と、生と死を内包する粘菌と、 レインカーネーション(輪廻)と。 死は生の裏側の世界で、 こっちで死んだらあっちで生まれる、 三途リヴァーを潜り続けたら別の水面に出た、みたいな。 そんな絵本のような考えが妙に説得力をもってきた。 もしくは、生と死はリバーシブルのセーターのようなもの… なんとなく。 とはいえ、そんな死生観を育てていても、 やはり感情はあって、 姜尚中「心」に感情移入して洪水になった。 大きな世界(命)の仕組みについて考えていると、 大きな世界に居るちっぽけな存在(自分)を見下ろすというか、 他人事のように突き放して見ることになるのだけど、 同時にちっぽけな自分の内側が、身体のまわりにある(と言われる)オーラの内側が 自分の世界の全て、というのもまた矛盾するような真実で、 感情もあるし、感情に溺れても悪くないのだ。 ところで死生観、についていえば、 チャーリー高橋さんの自作曲のその歌詞に、深く共感している。 11/25のライブで、何曲か歌わせて頂きます。(夜露死供!) …生と死と、家族、ということで、 貴乃花親方の言葉を思い出していた シェルカウイの言葉も。 テレビ番組(情熱大陸だったかな)で、父親(二子山親方)の位牌に毎朝、手を合わせる貴乃花親方が、 「(親父の)分身(ワケミ)でしか、ないですから」 (それ以外の存在意義は無い、という意味) と言っていたのが、印象深かった。 聞いたばかりのときは、「何故そこまで拘るのか、何故オヤジにそこまで拘るのか、その使命感はなんなのだ、何かの裏返しか?いずれにせよ常人には解らぬ境地なのだろう」 とワタシは思ったのだけど、 特に、"ワケミ"って何だ?という違和感があった。 一方のシェルカウイの話では、 「自分の父親は、自分の好きではない存在、自分がなりたくないもののすべて」であったのに、 「歳をとるにつれて、父親に似てきてしまう、でもそれは仕方がないこと、僕は両親のレインカーネーションなのだから、、」と言う。 (シェルカウイが19歳の時に父親とは死別) そんな「ワケミ」「レインカーネーション」という言葉を、 影響を受けやすい人物(尊敬の対象という意味で)から聞いていたから、 自分の思考も無意識化でそちらに(好き好んで)寄っていったという可能性もあるが、 昨日、ワタシも実感として、親の「ワケミ」なのだと思った。 ワタシの父親は10年ほど前に死んだのだが、 「死んでも私の心の中に生きている、、」 という感じ、はまったくしない。 (ジョン・レノンは人々の心の中に生き続ける、、というような話なら同感なのだが) 生きてないよ、死んだよ。 心の中にあるのは思い出だけ。 姜尚中は「心」の中で、「過去はある」と書いていたけれど、 それはホントでもあると思うけど、 「過去、追憶は妄想」と決めてしまった方が、 機能的に?生きられるとも思っている。 じゃあ死んだ父親はどこにいったのか。 死んでもどこにも現れなかった。(霊として) 夢の中に表れても、何故か顔は見えなかった。 冷たいのか?ワレ? 我々、ドライ? じつはドライ? 意外だったのだ。 死後の世界、についてアレコレ、考えた。 「大きな命の塊り」?に帰って、判別不可能になった? 熊楠いわく「心は三つ四つあるのだ - そのうち、いくつかはこの世に残る」らしい。 (コップの跡みたいな)トレースが残るのかもね。 それは想念? いずれにせよ、どこか遠く遠くにいったんだろう。 でも、ワタシはその「ワケミ」なのだから、 ある意味、ここに居ますから、気にしませんよ、と。 自分の心の中にうんぬん、というよりは、 身体そのものが両親でできている、 挿し木みたいなもんだと思えてきた。 そりゃ、生物学的に言えば、当たり前のことなのだろうけど。 実感、としてそう思った。 どうしようもなく(嫌だというわけではなく)、親に似ている自分について、 親は親、ワタシはワタシ、などと個人主義というかドライなアメリカーンな主張は (ゴメン何言ってるかよくわからない、、) ただの「ツッパリ」でしかない、というか。 別に自分がツッパッていた、というわけではないし、 つっぱる必要もなかった(基本的に自主性を尊重して育ててもらったので)のだけど。 (否、ある部分では対立していたか、、) 先天的(生物学的)にも、後天的(教育の結果)にも、 親のワケミとして存在しているのだから、 自分が生きている責任、を全て自分が負う必要もない、 という風にも思えてきた。 何かの一部の、そのまた一部であり、 もっと小さな一部たちの全体でもある、、、 きっと、 「死」そのものは悲しくない。 ただ、病等の苦しみを思うと悲しい。 周りの人の苦しみを思うとつらい。 死によって会えなくなるのは、話せなくなるのはさびしい。(自分勝手) 自分が悪かったと考えて自責(これはどうにも辛い) 感情はあっていい、 けど、色んなスケールの視点を複数持っていた方が、きっと生きることが楽になると思う。 週末、是枝監督の「そして父になる」を観てきまーす。
by agatha2222
| 2013-10-25 23:50
| Other
|
Trackback
|
Comments(0)
|
![]() by あがさ カテゴリ
全体 Live Schedule Live Report Project Beatlish Project RAHULA Progressive Tuvan Remon's Recordings Ondo Travel (Dance) Soundcloud etc. Dance Illustration Prose/Lyrics/Stories Agalliam Other Profile New Release! 未分類 以前の記事
画像一覧
|
ファン申請 |
||