浮かばれる、とはどういうことかしらん。
私は自分のことをもっと正確に詳細に知りたい(知った上で乗り越えたい)と思っているけれど、自分でああなるほど、と思えればそれで充分なのかしら?
こうして誰かが読むことを前提に書くことも含めて、外の世界となんらかの関りを持ちつつ展開していくことを「表現」とするのなら、、、表現してナンボ、自分の中から取り出して形にしてナンボ、とも思う。
でもね、わかってもらいたい病というのがあるでしょう、はたからみててイタいやつ。
あー、これ、イタいのかなー、イタいと思われるの、いやだなー、とか、いちいち(今更?)考えたりもする。
と、なんやかんやゴチャゴチャと、こうした前置きを安全装置がわりに、自分語りをするのであります。
そもそも、誰にもウザがられる心配なく自分語りをするためにブログを開設したというのに、いまだ二重三重に言い訳をしたくなるのは、見せ掛けの奥ゆかしさのせいか、もしくは。
私(達)は、誰に望まれたからでもなく、自らの意思で、あの人とあの人を選んでやって来たのだと、思ってるんです。
それは、数年前に生前記憶を持った子供たちを取材したドキュメンタリー映画(「かみさまとのやくそく」)を観たことと、
30歳くらいのとき母に「よく3人も子供を産もうと思ったね?」と訊いた答えが、「三人目(=私)は計画外!笑」だった、ということに因る。
そのカミングアウト?を受けて、もう子供じゃないので傷つきはしないけど、なんとも言い難いビミョウな気持ちも沸きつつ、むしろ納得というかしっくりきたところもあって。
以下、ビミョウな気持ち:
(別にさ、そんなこと言う必要ないよね?いや、でもそう開けっぴろげに話してくれる母は好き、ってか私が訊いたのか。あとこういう話を対等の目線で出来る歳に私もなったってことは喜ばしい。事実については、まあそういうこともあるわいな、でも?本当はデキてくれて有難う~♪♪って思われていたかった?当然のようにそうだと思ってた?いや、そんなことどーでもよくね?ううん、どうでもよくないのかも…←それは子供の気持ちね、子供ならね、でももう子供じゃないし、屁でもねぇわ云々)
はじめは、幼いころから解消されきれない僻む気持ちがわらわらと揺らいでいたのだろうけど、時間とともにそれらの滓が沈んだところで、大事なことに気がついたような。
きっと全部、自分で決めてきたのだと。
自分の命の起源みたいなところに想いを馳せるのは気色悪いもんですけど
親の意思に関係なく着床してやりました!ということについては我ながら頼もしさを覚えたり。
(我?我はどこからが我?いつからが我?)
しかも産まれたときのサイズが産院の記録破り、4.4キロ、55センチというふてぶてしさよ。
まさに、「なまずのように貪欲」←チャーリー高橋地方の慣用句
元々誰の期待も負って生まれてきていないの、
自分のすべきことは自分にしかわからないの、だから、
やりたいようにやったらええんじゃ!!!
と再確認、した。
誰それにこう思われたらいやだ(からこれはしない)、受け入れられないかもしれないから働きかけない、相手がこうしてくれるなら、私はこうしよう…
という思考は、商売がらみはさておき、状況をコントロールしようとしているようで、結局他人に自分の行動をゆだねている、もっと言えば自分の人生の舵取りを他人に(もしくは想像上の他人に)任せているということになる。
傍からみたら、私はけっこう「やりたい放題ちゃん」に見えてるのかもしれないけど、、プライベートマターに関してはそういう傾向があって。臆病者。
他人がどうでるかはその人の問題で、私の問題ではない、から、自分の望み通りにならない結果をも受け入れる勇気をもって、私は私のやりたいようにやる、、
その勇気なくして自由は得られないのだと。
(人の気持ちを慮らなくてもいいとかいう話ではなくて。)
だからさ、やりたいようにやるんじゃ!!!
セルフ・リライアンスじゃ!!!
まあ、去年流行ったアドラー心理学の受け売りも大いにあるのですが、今年の前半はそういう覚悟が訪れたことによって結果的に人と接することとかが楽になってきたように思う。
で、ええと、今日はこんなことを書きたかったわけじゃなかったんだけど、、まあいいや。
本題はまた今度。