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ナイショにしておいてって

書き始めたはいいけれど、どうにも考えが纏まらなくってほったらかしたまま時間がすぎ、話題の旬も過ぎ、発信することの自分にとっての意義のようなものさえ雲散霧消し、けっきょく投稿ごと葬り去る・・・ってのはままあることですが、今回はムダに根性だしてなんとか纏めたいと思います。
予告通り、アルバムに収録予定の一曲について。

「ナイショノハナシ」
2007年か2006年くらいに書いた曲なんだけど、女の子になった男の子のお話です。そういうふわっとした言い方を、しておきます。(アルバム出来たら聴いてね!)具体的なモデルがあったわけではなくて、ただ成り行きでそうなったんですけど。ある大晦日の夜、珍しく夜中までセッションに参加して、てきとうにジャムるというか歌っていたら、リフレインが「どうか、どうかナイショにしておいてー!」となって、後からこのラインを使って曲にしてみよう、と思って、じゃあ、そんなに内緒にしておいてほしいことってどんなことだろうか?と思い巡らしたら、そこに在ったテーマというか。音楽的には、その頃ジョアン・ボスコの弾き語りライブ盤を聴いては興奮していた影響が出ているかと思います。
和歌山でバンドをやってた頃や「ととぅ」では頻繁に演っていたんだけど、「この歌を私が歌ってもいいんだろうか、資格があるのか?」という迷いがあって、(あと体力的に演るのがけっこうしんどいのもあって)あまり演らなくなって・・・。
資格があるのか?と問うても、歌の中に流れている感情みたいな部分は、自分の中にあるものでないやっぱり出てこないし歌えないわけで、そこに嘘はないと思うんですけど。
いったい何に、拘っているんでしょうねー。


で、ところでなんですけど、最近読んだ本で興味深かったのが:

女装して、一年間暮らしてみました。

クリスチャン ザイデル/サンマーク出版

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TVプロデューサーとして名を馳せた著者(ドイツ人)が、交通事故で九死に一生を得たことから自分の生き方を省みるようになり・・・ある日、「ズボンだけじゃ寒すぎるが、ズボンの下に股引を履くと暑すぎる、ならば(女性用の)ストッキングを履いたらちょうどいいじゃないか!」とデパートの女性服売り場に足を踏み入れたところから始まる、タイトルどおりの体験談。
まあ、エピソードとしてちょっと出来すぎやしないか?と感じる点もあるんだけど、「女性の格好をすることで、今まで押し殺してきた自分の中の女性らしさに気づき、大いなる安心感を得られた(かといって女性になりたいわけでもなく、男性としての自分には満足しているし、女性のパートナーも居る)とともに、女性のことをより深く理解できるようになった」という著者の勇気ある実験による発見は、面白いっていうか、私にとっては、好物っていうか、フリーダム、イェー!!って加勢したくなるっていうか(意味わかりませんね…)。


あと関連してこちらも:

ありのままの私

安冨 歩/ぴあ

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安富歩さんは「女性装の東大教授」として有名(なんですかね?)、2013年にグザヴィエ・ドランの「わたしはロランス」って素敵な映画を観たんですけど、その紹介文を書かれているのを読んで、あー日本にもこういう人が(権威のある立場の人で)いるんだ、とちょっと興味を抱いたりしてた。
こちらの場合は、ダイエットで痩せたことを期に女性ものを着るようになった、体型的に女性用のズボンのほうがピッタリフィットしたから、ということがきっかけだそうですが、先述のザイデルさんとは違って、「自分はやっぱり女だった」と性自認というのでしょうか、これが転換したというか、気付いたと。(ちなみにザイデルさんと同じく、女性のパートナーがいらっしゃるとのこと)
着るものが、考え方・感じ方にまで影響する、というのはお二方とも書いていたことですが、それは私もめっちゃ思うなー、ちなみに。

両方とも読みやすい文章・ボリュームなので、興味ある方は読んで頂ければ…というわけで読書感想文はさておいてですね、まあ、自分はどうなんだろうか、とかって考えるわけです。性自認の根拠てなんなんだろうか、とか…。私の場合では、女の身体に違和感がなければ、女ということになるんだろうか。女らしさ、とか、男らしさ、とか、何が先天的な性質で、何が後天的なものなのか…。
違和感、というか、特に悩みは無いんですよ、わたしは。ただ、できあがった「自分」の出来あがる課程に、今でも興味があるっていうだけで…。細かく思い出せば、まあ、小さな葛藤は色々とあったかもなぁ、と。そういうことを誰かと話し合えたら、面白いかなぁとか思ったり。小2まではスカート履くのが嫌だったなぁ(めくられて・もしくは・めくれてパンツが露わになってしまうことへの予期不安などから)とか。「女」にはなりたくない(かといって男になりたいわけでもない)、ってはっきり思ったこともあったなぁ、とか。だって、お母さんやお姉さんとか、看護婦さんとかの属性も、固有の名前も剥がされた「女」という言葉には、ネガティブな印象しか育たなかったのよ。かといって、「母親」にもなりたくなかった。っとかなんとか、あんまり書きすぎると後で後悔するんだけど、まあどちらかというと、自分は「男らしい女」なのかなとは思うんですの。いや、それも、ケースバイケースなんだけど…(流動的というか)。
知り合いになったある人(女性)が「子供の頃から20代のはじめまでは男装ばかりしていて、自分は男勝り、なんだと思っていたけど、ある時、ほんとはそうじゃなくって、自分は男の人が大好きで、憧れて真似してたんだって気がついた」って言ってたんだけど、頷けるところはある。小4の時に、二歳上の背の高い男の子のことが好きで、真似して背中を丸めて歩くようになったり(背はあまり伸びなかったが姿勢の悪さは癖になった…)。一方で、同じころ二歳上の女の子のことも好きで…(いずみちゃんと言って名前も可愛かった)この場合は真似しようとか思わなかったんだけど…。なんかよくわからないな…。


って、とりとめもなく思い出話というか打ち明け話がしたいだけなのかもしれないけどね。
基本的には、一般論とかはどうでもよくて、誰しもできる範囲で好きなように生きたらいいやん(だから悩むことはないんです)と思ってるんです(悩まないけど考えるのはまあレジャーなんです)。
そもそも、何が男らしさで何が女らしさ?という線引きも、誰が決めたの?ってかんじなんだけどね。男性脳とか女性脳とかいう脳の「性差」も、有るという研究者も居れば無いという研究者も居る、そうですね、まあよく判ってないってことよね?よく言われているのは例えば、論理的思考や空間認識が得意なのは男性脳で、共感性に優れているのが女性脳だとかっていうのもあるけど、そういう性質というか能力も、だいたいみんな両方兼ね備えつつ程度に差が在るってもんだから…二種類に分けることに、果たして意味があるのかって…、考えれば考えるほど、あーもーどっちでもええやん!っていう結論に(結論っていうかナゲヤリ)至る。まあ、トイレとか浴場とかはもちろん男女区別してもらわないと困るんだけど、そういう話じゃなくてね。

とはいえよ、一般論はどうでもいい!とか言えるのも、女の私が男装(もしくは男性装)して(つまりズボンとシャツとか身につけて)外を歩いたところで他人に指さされるってことは無いけれど、逆のパターンだと大きなリスクが、あるもんね、今でもまだまだ…。(私も、指はもちろん指さないけど、見ちゃうもんなぁ…セーラー服着たおじさんとか見つけたら…省みるべな。って、男性の女装趣味、と、身体は男性だけど心は女性として女性装をすることもまた、別なんだけど)
私が、ザイデルさんや安富さんの立場だったら、どうだろうか、そのリスクを冒してみる勇気があるだろうか…とか、考えるわけ。女の男らしさ、よりも、男の女らしさ、の方が、やっぱり、抑圧されていることが多いんじゃあないかしら?!どうよ!?
実はさいきん、そんな「勇気」を出してみようとしている人の話をたまたま聞くことがあったので、特に深く考えてみたくなったのでした。


「ナイショノハナシ」録り、自分の分、全然すすんでなくって、、、っていうか、さいきん頑張れなくって、、、主に泣いてます(嘘)。



あ、何か写真がないとつまんないんで、本題とは関係ないものの先日連れて行ってもらった徳丸の田遊び@板橋区、のようすを最後に。

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うし~~!!
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ヤングパワー
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ぐるぐるまわる
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しし~!!!
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テンションさいこうなおっちゃん~!!
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by agatha2222 | 2018-02-14 00:23 | Project RAHULA | Trackback | Comments(0)


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