人気ブログランキング | 話題のタグを見る

スイートノーベンバーの日記(前半)

あーれー、もう11月。

日記を書いておこうと思ってたのに、自宅Wi-fiが使えなくなってしまい、
色々なことを試みてもダメで、数日間、放置を決めこみ、もろもろの作業が停滞。
その後、机の上の紙類を整理していたらNTTの請求書が!!!
発掘!!!
お金払ってなかっただけでした。(引き落としにしたはずなんだけど~)

11/2
ライブ「男の花道」(出演:東京縄文ボーイズ …チャーリー高橋、岡野勇人、小日山拓也/ 矢野忠)を聴きに、そら庵へ。
来年、「新春深川芸術祭」で共演させていただく予定の「東京縄文ボーイズ」さんとの打ち合わせ&顔合わせも兼ねて。
飛び入り?でワタシも2曲、歌わせていただいた。
「卑弥呼の恰好で歌えば?」という褒め言葉(?)を頂く。

矢野さんの弾き語りに心を打たれる。
こちらも飛び入りの、五錦さんの三味線、どどいつも素晴らしい。
ライブのあとは、そら庵の東海さんたちも一緒に連れだって錦糸町の夜の街へ消えました。

イラストは、「新春深川芸術祭」フライヤー用のスケッチ・・・
スイートノーベンバーの日記(前半)_e0303005_13562525.jpg


来年は午年なので、馬をいっぱい描こうと思っています。
昨今はネットでいくらでも参考画像がパクれるから便利です。

11/3
徹夜明けで朝からアスティエやバレエと運動しまくり。
最後に、池袋あうるすぽっとへ、「スガダイロー 五夜公演 『瞬か』 ×バレリーナ 酒井はな」を観に行く。
孤高のピアニストvs 至高のバレリーナ(なんかタイトルが美味しんぼみたいになった)による、顔合わせもリハも一切無しの完全即興、とのこと。

酒井はなさんは、居るだけで美しい。
クラシックだけでなく最近はコンテンポラリーのフィールドでも活躍されているので、即興でどんなに踊るんだろう?と思っていたのだけど、
完全即興というよりは、コスチュームも含めて、色んなピース(役・おどり)の抜粋を次から次へと繰り出してゆく、というかんじだった。
キトリ、椿姫、瀕死の白鳥、シルフィード、アルトノイの新作(たぶん)、、and more
まさに「酒井はな七変化」というか、クラシックバレエダンサーとしての魅力を120%魅せてくれたとおもう。
「あ、今この役だな、こんな音を欲しがっているのでは」と、勝手ながら気持ちが伝わってくるようだった。
ただ、「即興共演」というタイトルがもたらす期待からすると、踊りの世界とスガダイローさんのピアノとのインタラクティブなスパーク(?)がもっと欲しかったような。
もちろん、すべて、美しいのですが。

バレエに馴染みのないお客さんにとっては、舞台上でバーレッスンしたり、練習用のチュチュを点けたり、ポワントを履いてならしたりする場面も面白かったと思うな。

最後の最後は、「瀕死の白鳥」(サンサーンス作曲)の後ろ向きパドブレで酒井はなさん、登場し、
「これで終わりにすっからネ!」と押し切ったような。
オリジナルの「瀕死の白鳥」では、曲が終わると同時に白鳥が息絶えるという踊りなのです。

五夜公演の、別の回も見てみたかったなー。
本番中に破壊された?ピアノが劇場ラウンジで展示されていました。

11/4
さすがに疲れたよ、パトラッシュ…
しかも苦手な低気圧到来。
チェコの映画ポスター展」を観にいくにはちょうどいい、疲れ具合と「やること溜り」具合だと思ったものの、
まさかの休室日。(振替休日なのにー)

頭の中がチェコ・アート・リバイバル状態になったので、
(昔、ヤン・シュバンクマイエルやイジィ・トルンカ、イジィ・バルタ、ブジェジスラフ・ポヤルなどのアートアニメーションが好きで東京さ出てきたときに漁るように見てたの)
またDVDを借りようと渋谷ツタヤに行ったが、
無い!!!
まことに遺憾です。

代わりに?スタジオジブリ推薦の海外アートアニメのコーナーがあったので、何本か借りる。
ずば抜けて面白かったのが「ベルヴィル・ランデブー」。

11/8
「ノイズ合唱団」の若い衆4(フォー)と、11/25のライブに向けたリハーサル。
何をやるかはヒ・ミ・ツ♪ですが、ワタシの妄想の具現化のために皆様ひと肌脱いでくださり、本当にありがたいです。
ゲラゲラ笑って楽しかった~
こんなこと、なかなかやれる機会ないので、ぜひ11/25、観に来ておくんなまし~

スイートノーベンバーの日記(前半)_e0303005_1415734.jpg

(つづく)
# by agatha2222 | 2013-11-11 03:26 | Other | Trackback | Comments(0)

ことば とは とれす さーん てぃーん ♪♪♪

10/30 チャーリー高橋さん宅にてリハなど。

11/25ライブで演る予定の曲を中心に練習。
来年以降、演れそうな曲を聴かせてもらったり。
(後半はほぼ、DJナイトに…)

楽しい晩。色々な発見あり。
歌を通して、自分を客観的にとらえてくださるのがありがたい。
歌声(歌い方)から、楽曲の解釈ついて、さらには人物像を読み取って頂くという
まるでカウンセリングのような(笑)。

そしてリハ以来、新しく聴かせてもらった沖縄の民謡が、ずーっと頭でループしている。
三線が新たに欲しくなる(昔持ってたんだけど売っちゃった)ところだけど、
ギター弾き語りでもなかなか面白い。
早く演ってみたいな~~

それにしても、日本語は発音が難しいと感じる。
じゃあキレイな(何をもってキレイというか?)英語やポル語で歌えるかといえば???だけど…。
英語であれば、歌を組み立てる部品として、自分としては(比較的、)自由に扱えると感じている。

日本語の難しいのは子音と母音が一体化している点で、
それが一音に一字、となると難しくなる。(ときもある。)
自分で書いた歌ならば、自分の発音しやすいように書いているので、
(かつ、どう発音しようとも自分の勝手なので)気にならないのだけど。

割舌。
カツゼツ。
股割みたいなものか…(ちがう)

標準語の日本語のイントネーションが階段、であるとしたら、方言はスロープ、
といいますよね。
だいたいからして、普通に喋るのも標準語って難しいのかもしれないな、
ああ、なんだか難しい気がしてきた!

じゃあ英語はどうかと。
キレイな英語ってなんなのか、追求するつもりもないのだけど、
よく人から「(好くも悪くも)ナマッてる」と言われる自分の英語発音について、考えを少々。

まず、ワタシが自主的に興味をもって最初に聴き始めた「英語」が、
いわゆる90年代初頭のブリットポップ、UKロックだったので、
ひとくちに「英語」と言っても、歌い手によってさまざまであることが「普通」だと思っていた。
いや、普通だと思ったというよりは、そのような多様性を好んだ。
イギリス国内でも、上流階級の英語、コックニー(ロンドン下町)、リヴァプール、もしくは歌い手の出身地に関わらず…、、さらにはアイルランドや北欧やフランスやら、色々ある。
「ナマり」がアイデンティティであるかのように聴こえる。
それが、良いの。
たぶん、ネイティブスピーカーでないからこそ、
どういう「ナマリ」はダサいor鼻につく、とかいう先入観無しに、ただ「特徴」として受け入れられるのかもしれない。

ワタシたちが外国語で歌うにあたって、
「何を言っているのか現地人に通じなければ、、」という意見もあるが、
例えばイギリス人であるTom York(radiohead)の歌ってる内容なんて、
イギリス人が聴いても「聞きとられへん」らしいし、、
まあ、なんでもアリっちゅうことですな。

ブリットポップ等を聴き始める前にも、
母の聴いていたホイットニー・ヒューストンやマライヤ・キャリー等、
米国のR&Bに触れる機会もあったわけだけど、
子供心に、音楽として(歌手として)イイ、スゴイ、と感じながらも、
自分自身と繋がるモノを感じなかったわけです。
「バックトゥザフューチャー」のマイケル・J・フォックスとかが話す英語なども、(歳がばれる)
カッコいいアメリカの、遠い世界のモノ、としてとらえていたのなー。

そして一見(否、一聴)、「ムチャクチャな」発音、「奇抜な」発声で歌われた「英語」に触れた時、
「えー、これ英語なん?」という驚きをもって惹きつけられた、のかなー。

んでもって、ビートルズに出会ったらコレが聴きやすい。
歌詞の内容も解りやすい。
つじつまが合うことを言ってる。
ビートルズで英語を学んだといっても過言ではない…。

というわけで、色んな側面からみても言葉って面白いなあ思う今日この頃。
(強引にまとめる)

話はそれますが、
「ベルギー ヨーロッパが見える国」という本を読んだ。
オランダ語(フラマン/フランデレン語)とフランス語の、
ゲルマンとラテンの、
フランデレン人とワロン人の攻防、
その境界線を内包するヨーロッパの十字路、ベルギー。
多言語国家の面白さと、
シディ・ラルビ・シェルカウイ(←このブログではお馴染です)とダミアン・ジャレの文化・教育的背景に触れる。

そんな、こんな。
あんな、どんな。
アンナ、マドンナ。
# by agatha2222 | 2013-10-31 23:14 | Other | Trackback | Comments(0)

9月~10月末までのライブetc.情報(随時更新)

現在決まっている10月のライブ予定です。
9月のライブ予定はありませんが、踊るかもしれません。
(踊らないかも、しれません...)ええ、踊りましてん!!

9/15(Sun) Damien Jalet Workshop - Presentation
場所:スタジオアーキタンツ
http://www.a-tanz.com/
開演:19:20 (19:10 開場予定)
観覧無料
予約なくてもご入場頂けますが、できればご予約下さい。↓

【ご予約/お問い合わせ】
スタジオアーキタンツ
tel: 03-5730-2732
fax: 03-5730-2733
e-mail: 3@a-tanz.com
〒105-0023
東京都港区芝浦1-13-10
第3東運ビル4階

…念願の、ダミアン・ジャレのWSに参加します。
(所謂コンテンポラリー・ダンスです。)
一週間ぶっとおしで、たぶん身体はズタボロになります。
最終日にインフォーマル・パフォーマンスとして、プレゼンテーション(観覧無料)が予定されていますが、途中棄権・脱落する可能性もあるのであります。
しかし、参加すると決めたかぎりは、誰に観られても恥ずかしくないように頑張るぞということで、こんなふうに吹聴するのであります。
(なんか矛盾したモノイイだこと)

9月~10月末までのライブetc.情報(随時更新)_e0303005_16592136.jpg

10/26(Sat) ハロウィンライブ@Live Cafe Sala
http://www.livecafe-sala.com/
住所:東京都港区赤坂2-17-58 赤坂福住ビルB2
電話:03-3505-0690

open:19:00 start: 19:30
charge: 1,500yen

出演:
bolo/あがさ/八重尾雄太

3組のタイバンライブです。
お友達の"bolo"さんに誘って頂きました!
ライブ前の12:00~17:00はセッション&オープンマイクタイムとなっております。

ご予約いただけると、助かります。
ご予約方法は、このブログにコメント頂くか、
下記アドレスまでメール下さい。

(boloから、お二人↓)
9月~10月末までのライブetc.情報(随時更新)_e0303005_1710234.jpg

# by agatha2222 | 2013-10-31 14:37 | Live Schedule | Trackback | Comments(0)

カボチャとかライブとか

10/26 ハロウィンライブ@Cafe Sala赤坂にお越しいただいた皆様、お店のさくらさん、共演者の皆様、ありがとうございました!

Set Listはこんなかんじ↓(*はカヴァー、それ以外はオリジナル)

Menino das Laranjas*

I will*
今年の夏は暑すぎる
なのはな畑で
Expresso 2222*
モラル

他、セッション


この日、お店に着くまで、二度も電車を逆方向に乗ってしまった…
精霊だか妖怪だかにもてあそばれたとしか考えられないです。
精霊だか妖怪だかにもてあそばれるスキがあるほど、頭がユルかったのは事実です…。

頭がユルむと(身体もユルンでます)、ミスもするけれど、
妙に自由度が増すというか、暴れ馬というか、
あーワタシ、変かもヘンタイかも、、と思ってしまった。
鬼才、の意の良いヘンタイじゃなくて、なんていうか、江頭さんとか、ああいう、キモい感じの。
その辺のさじ加減は(自由orヘンタイ←→お行儀よしこさん)、自然にコントロールされてしかるべきなのだが、
いかんせんユルくて~~~
ごめんくさい~~

崩壊しすぎないように、ちょっとなんか、いろいろ、もろもろ、改めようとしています。
せめて、スマホ見ない、とか。癖になるのよー。光がー。電光がー。
ツーマッチインフォメーションがー。
人体人脳に悪影響ありんす。
摂取する情報の選択と制限を試みてみます、しばらく。


10/27 東京ELECTROCK STAIRS「つまるところよいん」千秋楽を観に行きました。

前投稿で語った映画を見に行く予定を変更して、迷ってやめとこ、と決めてたけどやっぱり行くことにしました。
東京ELECTROCK STAIRSは、いうなればコンテンポラリー・ヒップホップ・シアター、と称せましょうか。
これ、とても面白かったです。
運動量すさまじいです。
前作よりさらにさらに面白かったのです。

(今も頭やユルンでるのでそんな感想でごめんくさい~)
# by agatha2222 | 2013-10-28 17:03 | Other | Trackback | Comments(0)

粘菌と化身と分身とか

先日から何気なく録画しておいたテレビ番組等を観ていると、
在る禅僧が、
藤子・F・不二雄先生が、
是枝裕和監督と姜尚中が、
アルピニスト野口健と小説家・平野啓一郎が、
詩人の加島祥造と姜尚中(再び)が、
話していた。

最近いくぶん細く弱々しくなった論理的思考(ワタシの)を貫いているテーマについて、
もしくはそれに関連づけられることについて話していた。

ぽっかり空いた穴の中にそれらの言葉は吸い込まれていって、
自力で捏ねられる(?)パン生地のように纏まって、
もしくは粘菌のように変化しながら形作られていく。
変化していくワタシ個人の死生観が語りはじめる。

その後さらに、
姜尚中の小説「心」と
水木しげる「猫楠」-南方熊楠の生涯ー(マンガ)
を読んだ。

「心」は、息子を亡くした(自殺)ばかりの姜尚中自身が、
ココロの整理をつけていく過程、のような作品だ。

同じテーマとは、
生と死と、家族、
綿々と受け継がれる命と、生と死を内包する粘菌と、
レインカーネーション(輪廻)と。

死は生の裏側の世界で、
こっちで死んだらあっちで生まれる、
三途リヴァーを潜り続けたら別の水面に出た、みたいな。
そんな絵本のような考えが妙に説得力をもってきた。
もしくは、生と死はリバーシブルのセーターのようなもの…
なんとなく。

とはいえ、そんな死生観を育てていても、
やはり感情はあって、
姜尚中「心」に感情移入して洪水になった。

大きな世界(命)の仕組みについて考えていると、
大きな世界に居るちっぽけな存在(自分)を見下ろすというか、
他人事のように突き放して見ることになるのだけど、
同時にちっぽけな自分の内側が、身体のまわりにある(と言われる)オーラの内側が
自分の世界の全て、というのもまた矛盾するような真実で、
感情もあるし、感情に溺れても悪くないのだ。

ところで死生観、についていえば、
チャーリー高橋さんの自作曲のその歌詞に、深く共感している。
11/25のライブで、何曲か歌わせて頂きます。(夜露死供!)

…生と死と、家族、ということで、
貴乃花親方の言葉を思い出していた
シェルカウイの言葉も。

テレビ番組(情熱大陸だったかな)で、父親(二子山親方)の位牌に毎朝、手を合わせる貴乃花親方が、
「(親父の)分身(ワケミ)でしか、ないですから」
(それ以外の存在意義は無い、という意味)
と言っていたのが、印象深かった。
聞いたばかりのときは、「何故そこまで拘るのか、何故オヤジにそこまで拘るのか、その使命感はなんなのだ、何かの裏返しか?いずれにせよ常人には解らぬ境地なのだろう」
とワタシは思ったのだけど、
特に、"ワケミ"って何だ?という違和感があった。

一方のシェルカウイの話では、
「自分の父親は、自分の好きではない存在、自分がなりたくないもののすべて」であったのに、
「歳をとるにつれて、父親に似てきてしまう、でもそれは仕方がないこと、僕は両親のレインカーネーションなのだから、、」と言う。
(シェルカウイが19歳の時に父親とは死別)

そんな「ワケミ」「レインカーネーション」という言葉を、
影響を受けやすい人物(尊敬の対象という意味で)から聞いていたから、
自分の思考も無意識化でそちらに(好き好んで)寄っていったという可能性もあるが、

昨日、ワタシも実感として、親の「ワケミ」なのだと思った。

ワタシの父親は10年ほど前に死んだのだが、
「死んでも私の心の中に生きている、、」
という感じ、はまったくしない。
(ジョン・レノンは人々の心の中に生き続ける、、というような話なら同感なのだが)
生きてないよ、死んだよ。
心の中にあるのは思い出だけ。

姜尚中は「心」の中で、「過去はある」と書いていたけれど、
それはホントでもあると思うけど、
「過去、追憶は妄想」と決めてしまった方が、
機能的に?生きられるとも思っている。
じゃあ死んだ父親はどこにいったのか。

死んでもどこにも現れなかった。(霊として)
夢の中に表れても、何故か顔は見えなかった。
冷たいのか?ワレ?
我々、ドライ?
じつはドライ?
意外だったのだ。

死後の世界、についてアレコレ、考えた。
「大きな命の塊り」?に帰って、判別不可能になった?
熊楠いわく「心は三つ四つあるのだ - そのうち、いくつかはこの世に残る」らしい。
(コップの跡みたいな)トレースが残るのかもね。
それは想念?

いずれにせよ、どこか遠く遠くにいったんだろう。
でも、ワタシはその「ワケミ」なのだから、
ある意味、ここに居ますから、気にしませんよ、と。
自分の心の中にうんぬん、というよりは、
身体そのものが両親でできている、
挿し木みたいなもんだと思えてきた。

そりゃ、生物学的に言えば、当たり前のことなのだろうけど。
実感、としてそう思った。
どうしようもなく(嫌だというわけではなく)、親に似ている自分について、
親は親、ワタシはワタシ、などと個人主義というかドライなアメリカーンな主張は
(ゴメン何言ってるかよくわからない、、)
ただの「ツッパリ」でしかない、というか。
別に自分がツッパッていた、というわけではないし、
つっぱる必要もなかった(基本的に自主性を尊重して育ててもらったので)のだけど。
(否、ある部分では対立していたか、、)

先天的(生物学的)にも、後天的(教育の結果)にも、
親のワケミとして存在しているのだから、
自分が生きている責任、を全て自分が負う必要もない、
という風にも思えてきた。

何かの一部の、そのまた一部であり、
もっと小さな一部たちの全体でもある、、、

きっと、
「死」そのものは悲しくない。
ただ、病等の苦しみを思うと悲しい。
周りの人の苦しみを思うとつらい。
死によって会えなくなるのは、話せなくなるのはさびしい。(自分勝手)
自分が悪かったと考えて自責(これはどうにも辛い)
感情はあっていい、
けど、色んなスケールの視点を複数持っていた方が、きっと生きることが楽になると思う。

週末、是枝監督の「そして父になる」を観てきまーす。
# by agatha2222 | 2013-10-25 23:50 | Other | Trackback | Comments(0)